Monday, October 22, 2012

俳句

今週、個人プロジェクトのために俳句を一つ書きました。タイトルは:「泣きそうな顔」です。俳句は色々なルールがありますので、書くのは難しいです。実は、私が書いた俳句は「自由俳句」というものです。つまり、切れ字とか季語を使いませんでした。

 そして、浪玲さんからメールがも一つ来ました。文法の修正も詩のお勧めをもらいました。

Sunday, October 21, 2012

Facebookのコメント

日本の友達はFacebookでブログのコメントをしましたので、ここで複製します:

 言葉の力
Naoya Uemura「言語はツールでしかない、という人もいるけど、俺は絶対そうは思わない」
と留学してた友人が言ってたのを思い出す。

たしかに言語はツールであるのだけど、同時に言語は文化と密接に結びついている。
言語をツールとしてしか見ないのではすごく寂しい気がする。
やっぱり外国語を勉強する中で、見えてくる異文化への理解、
そして自国への内省というものがある。
個人的には日本語という言語がすごく好きだ。

英語が流暢に話せさえすれば外国人と豊かなコミュニケーションができるのか?
外国語に堪能であれば、日本での自分のcharacterを、その国でそのまま表現できるのか?
英語学習の徹底は自文化の軽視と結びついてしまわないか?

その通り/そうでない、とかではなく
闇雲に英語学習をする前に、このへんを一度、考えて見た方が良いと思う。
 
Yoshitaka Miura: 日本全体で英語を勉強していく中で日本文化を忘れていくのか、ということは分からないけど、個人単位でちょっと思うことあるな。

英 語の勉強を始めてからやや性格やコミュニケーションの取り方が変わってきたんだよね。日本で英語に触れてなかったときは、ただ日本の中で通用するコミュニ ケーションの取り方をしてた。でも他の文化の中の行動様式・コミュニケーションの取り方を見て・体験して・自分の中に取り込んでいく中で、このいろいろな ものを取り込んでいくことが自分の思考形態の特徴で、自分自身が持つ文化なんだって思い始めた(^^)
日本文化は好きだけど、自分にとっていいものを取り入れていくことが一番だと感じてる。大勢の人たちにとっての言語と文化は違うかもしれないけど、ちょっと感じたこと書いてみました(^_^)/

Asumi Saito 言語は文化だと思う!
日本語学んでるMexicanがГI learned 11ways to say 'please' in Japanese!」って言っててワロタ(これ前ゆったか?)

つまり文化への理解なくして言語は修得できないとわたしは思うよ。上の方の言うように、言語は思考や行動様式を規定する側面をもつと思う。(構造主義的な。)
だからこそ支配力とかもうまれてくるんじゃないかな。

てことで英語学習の徹底というよりも、国語の不徹底が自文化の軽視に結び付くのでは?(日本人だから簡単に国語と言えるのですが^^;)

Yuki Hayashi モ ントリオールで(クソまずいカナダビール飲みながらw)言ったのはギャップを埋めたいってことやけど、4カ月おったら結局あの時の自分が今も自分の中の大 きな存在としてある。何のために海外見てるかって一つには言語/文化に規定されないほんとの自分を作るためと思ってる。

だから100持ってるもんを英語で80しか出せてない時点で文化以前に闇雲でも勉強すべきやろ。
そ れに文科省が言うなら話は別やけど、個人レベルやったら自文化の軽視なんてマジbullshit. 俺はカナダの文化も自文化やと感じてる。自文化・異文 化って言うより、国境に囚われず経験したいろんな文化を「自分化」出来たとき始めてオリジナル、uniqueな「自」文化が出来上がると思う。
まあその上で言語にも縛られないバイリンガル・マルチリンガルになれたらええな。

Naoya Uemura Yoshitaka Miura たしかに、「日本文化」というものを丸ごと自分の中に受容する必要は無いし、ってか無理だよね多分笑
しょうけいの言うように日本文化、異文化、それぞれを理解した上で自分の中に取り入れていくことがあるべき姿だよな、きっと。
世界で戦える人材になるためにはそのプロセスが必要なんだろうな
 
Naoya Uemura Asumi Saito ワロタw俺でも11通りも知ってるか怪しいわw
そうだよね、俺も英語学習自体が直接自文化の軽視に結びつくとは思わない。
そもそも外国語を通して文化も学べると思ってるからね。
危惧してるのは徹底という施策によって「英語ができさえすれば良い」
と思い文化を軽視するというムードができてしまうこと。

まぁ懸念点の無い完璧な施策なんて無理だから言っても仕方無いのかもしれないけどねー。
なんかこんがらがってしまった申し訳。
 
Naoya Uemura Yuki Hayashi なるほどなるほど。。
カナダでハヤの話を聞いて考えてみて、結局characterはある程度言語に規定されてしまうと考えてたんだけど
つまり"自分"というのは絶対的に存在してて言語/文化に規定されないということ?
それとも言語/文化に規定されない本当の自分に加えて言語によって変化しうる自分があるってことかな。
異文化をも自分化して"自"文化。すごく新鮮。面白い!


いやしかしまずかったなあのビールw
 
Yuki Hayashi あーそんなことも言ってたな!酔ってたしあんま覚えてへんわw

目指すべきところは2つ目が近いかな..
一 括りに自分っつっても、まずmindっていう意味での自分は大いに経験した文化に規定されてると思う。カナダで暮らしたことで日本文化が作り出す独特の人 間性からは抜け出せたかなと感じてるけど、これからいろんなこと経験して、もっと普遍的で文化に囚われない考え方を持ちたいなと思ってる。
反 対に俺が言ってたのはそのcharacterとしての自分で、ここは言語が大きな側面を持ってるけど、考えたらやっぱり俺らの英語レベルじゃ言語自体の違 いとか限界どうこうより運用能力に問題アリってのがほとんどやろw だから単にもっといろんな表現勉強しよーって話になるけど。ただまあ完璧なバイリンガルでも、characterの部分の自分はある程度言語に規定され ちゃうとは思うよ。

ハイコンテキストとローコンテキスト
Yasuyuki Mayumi Hayakawaローコンとハイコンのブログにコメント書きましたが、送り方がわかんなくて・・・ううう~んパソコンについてゆけない(涙)ローコンとハイコン面白く読みました。 

Nana Mariko すてき!私もブログ書いてるよ(*´∇`*)
 

Saturday, October 20, 2012

完璧に翻訳できますか?




私は翻訳について考えるとき、電子を思い出します。ちょっと変かもしれませんが、実は翻訳と電子は同じように限界があります。両方は自分の不確定性原理Uncertainty Principle***)があると思います。

科学では、不確定性原理というのは電子の位置と電子の運動量に関連します。同時に、電子の位置と運動量を測定できません。翻訳は同じように、同時に、原作の一語一語の意味と原作の調子を翻訳できません。この「直訳」と「意訳」の間に折り合いをつけるのは翻訳の中心的な問題だと思います。

でも、実際に、折り合いをどうつけますか?私は沢山翻訳経験があるわけではありませんが、去年「巴」という能楽を少し翻訳しました。能楽とか詩を翻訳するのは特に難しいと思います。どうしてかというと、調子やリズムはすごく大切で、翻訳しにくいものからです。

「巴」 を翻訳した後、私の翻訳に対する意見は本当に他変だった。「無理。」だと思いました。「外国語の文学を読みたかったら、外国語を習った方がいい。」完璧に翻 訳できないので、翻訳はむだと思いました。今、そんなに強い意見がありませんが、まだ翻訳は完璧じゃないものだと思います。でも翻訳は何もないよりましなの で、翻訳ができるように頑張ってみましょう。

***不確定性原理というのはある2つの物理量を同時に測定することはできないという理論のことです

Sunday, October 14, 2012

SFとは。。。?

私は日本語の三年生の時、「ボッコちゃん」という話を読んで、「おーいでてこーい」という短編映画を見ました。その二つの話はとても簡単ですが、よく考えたら、深いテーマを発見できるので、好きでした。だから、最近日本の文学を読みたかった時、星新一の文集を図書館から借りました。

皆さんは星新一のショートショートの一つを読んだことがありますか?今回、私は「リンゴ」という話と「なぞの女」という話を読みました。この話は本当に面白かったと思いましたが、何かに気づきました。星新一は「SF作家」と呼ばれていますが、小説の舞台はよく現在の日本を使われているし、小説のような事が現実に起こる可能性があります。私の理解では、SFは宇宙人や未来的なことがなければならないと思いますが、少し調べて、日本とアメリカはちょっと違うSFの定義があるということを発見しました。それに、実は星新一は自分の定義もありました:

 “SF has various elements and each person has a different claim, but I find appealing the kind of works that allow us to look at situations from a completely different angle. [...] Also, there is a theory that SF should initiate the criticism of civilization. In my opinion, this is the ideal, and I intend to keep making an effort to do this.”(英語ですみません。。。日本語の原作を見つけませんでした。***)

私の意見では、この定義は広すぎると思います。星新一の定義では、「サイエンスフィクション」は「サイエンス」があまりありません。とは言っても、この定義は日本とアメリカの文化の違いを表していると思います。多分アメリカは日本より「細かい定義をするのが好き」という文化があるかもしれません。



アメリカのSF

***Otsubo Naoyuki, ‘Kaisetsu’ in Hoshi Shinichi’s Kimagure boshi no memo (Tokyo: Kadokawa shoten, c1972, 1988), p.381. qtd. in Matsushima, Sayuri. “Hoshi Shinichi and the Space-Age Fable.” New Zealand Journal of Asian Studies 5, 2 (December, 2003): 94-114.