Friday, December 14, 2012

手の届きそうな話


ドラマとか映画はどうして私達に影響しますか?そのストーリーは本当のことではありません。では、どうして人間はこのようなうその話を何時間も見るのでしょうか? 

実は映画ドラマ(そして本マンガ)は人間にとって特別な役割があると思います。この筋があるものは簡単に分けたら、二つのタイプになると思います:「逃避主義の話」と「理想的な話」です。(これは過度の単純化かもしれませんが。。。)ファンタジーとか時代劇は前の「逃避主義の話」のタイプで、現在的なドラマとか高校の映画は「理想的な話」のタイプです
ファンタジーとか他の「逃避主義の話」はそれ自身の魔力がありますが、その「理想的な話」、つまり、現在の世界に起こる話、の心を動かす力は「リアルさ」から来ます。ドラマとか本は「私の生活で、この本のような出来事が起こる可能性がある」とみんなが思ったら、ヒットになります。「東京ラブストーリー」とか「High School Musical」の人気はこの「手の届きそうな」特徴から来たと思います。この話は実際の生活に近いですが、理想的な生活を見せます。だから、人々はこの理想的な話を見る時、その話と関係があると感じます。

Thursday, December 13, 2012

「差別は当然だ。」




「差別は当然だ。」

最近、授業で、手紙という映画を見ました。その映画は色々なテーマがありますが、大事なのは「差別」というテーマです。簡単に言えば、映画は直貴という主人公の生活を描きます。直貴は高校生の時、兄お金を盗み、一人暮らしのおばあさんを殺してしまいました。兄の犯罪は直貴の生活の「すみ」になってしまって、直貴はそれからずっと差別で悩まされました。

直貴はある埼玉の倉庫で働らいた時、その会社の会長が直貴と話すために、倉庫に来ました。会長と直貴は差別とか不当な扱いについて話し合って、会長は差別はどこでもあるのだから、「差別がない」ところを探す代わりに、今にいるところで人間関係を作るほうがいいと言いました。

私はその会長の考え方に賛成です。差別はどこでもあります。でも私はそれについて考えた時、差別の「型」について考え始めました。それぞれの国は自分の歴史がありますから、それぞれの国は自分の差別の型もあります。例えば、「手紙」の差別は犯罪者の親族に対する差別です。日本では、この差別はよくありますが、アメリカでその差別があまりないと思います。仏教の考え方では、死んだ動物と働くのは不潔な仕事ので、その人に対する差別がありますが、キリスト教があるところでは同性愛に対して差別がよくあります。

つまり、差別はどこでもありますが、差別の型はそれぞれ違います。面白いでしょう?

Wednesday, December 5, 2012

理想的な悪


「地獄への道は善意で敷かれている。」
 
最近、「デスノート」というアニメを見ました。簡単に言えば、「デスノート」は理想的だけど傲慢な少年が生死を操る能力を得たらどうなるかという話です。正義とか死刑について、色々な面白い問題が出て来ます。悪人を皆殺したら、世界はもっといいところになりますか?誰がその悪人を判断すべきですか?「正義」というのは具体的になんですか?

私はこの質問にはっきり答えられませんが、このアニメマンガは本当にこの深いトピックについて考えさせてくれました。でも私にとって、この多くの深い問題の中で、一番面白いのはこの「理想的な悪」についてです。
デスノートの主人公はどうやって無罪の高校生から狂気の殺人者になりましたか?
「デスノート」の主人公の性格的欠陥は善意と傲慢の結合だと思います。実は、この考えは上の格言と一緒に、「専制的権力は人を完全に堕落させる」という諺もよく現れている思います。歴史を通じて、これが何回も起こりました:誰かが理想主義的な意図で権力を握ったが、主権を持った後、権力に狂ってしまいました。 

私にとって、この「理想」の性格的欠陥は本当に怖いと思います。何かいいことをしようと思って、本当に悪いことをするのは恐ろしい考えだと思います

Monday, December 3, 2012

最後のポスト

先週末、授業のための最後の「Poetry SNS]ポストしました。短歌を五つ書きました。タイトルは「いんしょく」です。リンクは:ここ。この短歌の小詩集のテーマ食べ物と感情の関係です。(前に、このブログでこのテーマについて少し書きました。)「いんしょく」というタイトルを選んだ理由はこの食べ物の関係だけじゃなく、「韻初句」も「韻職」という意味もあるからです。


ディズニーとローカライゼーション

先週、マンガ・アニメのグローバライゼーションについて書きました。今週、それに対して、マンガ・アニメのローカライゼーションについて少し書きたいです。ローカライゼーションはグローバライゼーションの後で起こります。ある国は他の国のものを好きになった後、自分で、自分の他の国のようなものを作るのはローカライゼーションということです。アメリカのマンガ家はこのローカライゼーションの例です。

ディズニーのプリンセスはますますアニメキャラクターのようになりまし
ローカライゼーションについて考えながら、ディズニーを思い出しました。ディス二―の最初のプリンセスの「Snow White」から最近の「Tangled」 のラパンゼルと比べたら、面白いことに気づきます。その二人のプリンセスの体と顔は全然違います。スノーホワイトはもう少し写実的な体があって、ラパン ゼルはちょっとアニメキャラクター見たいです。多分これは私だけの考えですが、私にとって、ラパンゼルの方はちょっと日本のアニメっぽいだと思います。

多分このディズニーのプリンセスの変化は日本とローカライゼーションに関係ないですが、日本のポップカルチャーはアメリカにますます大きい影響を与えていて、これは多分「間接」のローカライゼーションの例でしょう。

私達の世代は子供の時「ポ ケモン」とか宮崎の映画をよく見ましたから、私達の嗜好はちょっと日本っぽくなったかもしれません。そして、普通のアメリカの映画とか番組は最近ちょっと日本っぽくなったと思います。でも皆さんはどんな意見がありますか?これはローカライゼーションの例だと思いますか?