Thursday, November 8, 2012

テセウスのパラドックス



 
「翻訳」と「翻案」の違いを知っていますか?簡単に言えば、翻訳というのはある作品の言葉を他の言語に変えることです。その一方、翻案というのは、文字通りに翻訳しなくて、作品に何重も重なる言語的文化的のコノテーションについて考えて、元の作品を編み直すことです。つまり、翻案の考え方は、一語一語言葉を別の言語に置き換えてみても、その作品を効果的に再現できないということです。

前のポストで私は翻訳と電子の関係について話しました。そして今日、翻案に関して、またちょっと変な似ているものを思い出しました。私にとって、翻案は面白いですが、中心に大切な問題があります:何かを翻案するとき、原作をどれほど変えたら、まだ原作を踏まえていると言えますか?実はこの問題はとても有名なパラドックスに似ています。

「テセウスのパラドックス*」って知っていますか?簡単に言えば、このパラドックスは、ある物体の全ての部分が置き換えられたとき、基本的に同じであると言えるのかという問題です。翻案は「置き換える」ことじゃないので、ちょっと違いますが、面白い問題だと思います:何かをちょっと変える時、どのぐらい変えたら他のものになりますか?

パラドックスなので、答えがないかもしれませんが、私にとって、翻案は原作の感じを伝えていても、言葉とか意味はそんなに変えられたので、翻案はやっぱり違うものだと思います。

*他の名前は: テセウスの船

3 comments:

  1. 私も同感。
    原作と翻訳は、同じ作品として考えられますが、翻案となると、やっぱり原作とは独立した、別の作品という認識になります。
    でも独立した別の作品という認識はありながら、作品の根底に、原作と何らかの共通性があるんですよね。
    言葉では表現できない、感覚的なものなんですけど。

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  2. 翻案のパラドクスをとてもよく説明しました。私も、翻案しながら変えることが多過ぎたら別の物になるという点に賛成です。翻訳する時にもこの問題がありますが、翻案は(どんなに上手だっても)少しやり過ぎると思います。

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  3. パラドックスのことはとても面白いですね。翻案と意訳は同じ様に元の言葉を使わないけれども、とてもいい翻訳は意訳の方があっても翻案にならないと思います。だから、翻案と翻訳の区別はどれほど置き換えることだけではなく、どれほど再創作の部分があるということにあると思います。

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